皆さま
こんばんわ、柳原です。
‥‥
この裁判の取組みを行なう会に名前をつけ、口座を開設する必要があり
ます。
ちょうど、母乳の放射能調査を行なった団体が「母乳調査・母子支援ネット
ワーク」と命名し、カンパを募る口座を開設したように。
皆さんから、これぞという名前を出していただけますか。
以下は私のアイデアです。
「26条の会」
「26条裁判の会」
「26条裁判プロジェクト」
理由は私自身の自己批判を込めたものです。私は、ごく一般的な法律家の例に
もれず、憲法を最もバカにし、軽視してきました。抽象的な言辞を書き連ねた
だけで、現実の紛争にはクソの役にも立たないと考えてきたからです。
もともと私は、著作権法を専門とするいわゆるブル弁です。しかし、著作権法
の仕事をする中で、人々に感銘・感動を与える作品を作り出す人たち(クリ
エーター・アーティスト)が、著作権法の中で最も劣悪、悲惨な地位に置かれ
ていることを知り、その不条理・不合理な法秩序に次第、疑問と不満を抱くよ
うになりました。
そして、最も価値ある物=作品を作り出した者こそ、その創作行為に相応しく
最も尊重されてしかるべきではないか、という真理に到達した時、それを支え
てくれる根拠を探し求めましたが、ふだん仕事で使う法律の中にそんなものは
見つかりませんでした。結局、探し求めた末に最後に出会ったのが、それまで
最も軽蔑していた憲法でした。無知な私は憲法の正体を知らなかったのです。
そのとき初めて、憲法こそ自分の最も支えになる規範なのだということを、つ
まり憲法の価値、その普遍的な意義を体験しました。
憲法は私にとって21世紀のバイブルとなりました。
その経験のあと、世界の憲法の歴史を振り返ったとき、世界史でも、人々は、
スケールは比べるべくもありませんが、本質的には私と同じような無知の涙を
流す体験をくり返していることを知りました。
憲法は、人々が、悲惨な現実、不条理な現実に対し、人々がこれに甘んぜず、
「おかしい!」「許せない!」と抗議の声をあげ始め、葛藤し続けた末に、初
めて人々の前に姿を現したものだからです。
世界史で憲法が登場したのは、3つの大激動のあとです。
最初が17~18世紀の市民革命・独立戦争のあと。
世界最初の憲法である米国のバージニア憲法はこう宣言しました。
「政府は人民、国家または社会の利益、保護および安全のために樹立される。
いかなる政府も、これらの目的に反するか、または不十分であると認められた
場合には、社会の多数の者は、その政府を改良し、変改し、または廃止する権
利、いわゆる革命権を有する。この権利は、疑う余地のない、人に譲ることの
できない、また棄てることもできないものである。」(第2条)
これは米国の独立戦争のときだけでなく、今なお、普遍的な真理です。
2番目が、過酷な大量殺戮兵器の出現、世界史上、未曾有の死傷者(死者一千
万人、負傷者二千万人以上・行方不明者七百万人以上)・被害・惨禍をもたら
した第一次世界大戦のあと。
敗戦国ドイツで制定されたワイマール憲法は史上初めて、生存権を宣言しました。
「経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値する生活を保障することを目
的とする正義の原則に適合しなくてはならない。経済的自由は、この限界内で
確保される」(151条)
これも第一次大戦のときだけでなく、今なお、普遍的な真理です。
3番目が第一次大戦をはるかに上回る(死者だけで六千万人以上)第二次世界
大戦のあと。
「戦争放棄」などいう大それた、大掛かりな条文が史上初めて憲法に登場した
のは、この未曾有の悲惨・不条理極まりない現実を体験したからです。
憲法は、人間が、狂気と凶器に走り、悲惨な現実、不条理な現実と直面した挙
句に、正気に帰ったときに見出した言葉=真理のことです。なぜなら、それは
普遍的な価値を体現しているからです。
だから、今、福島原発事故という未曾有の人災に直面した私たちは、正気に帰
って、憲法に戻るべきです。
なぜなら、これまで原発を推進してきた人たちの倫理は、いま生きている個人
の生命・健康を、お金(経済的)と天秤にかけて、「そんなに費用がかかるの
であれば、被ばくの安全基準とすることはできない」と平気で言ってのけてき
たものだからです。これは「他者を自分を愛するのと同じように愛せ」という
人権思想の根本からみたとき、狂気です。
私たちは、狂気から離れ、正気に向かう必要があります。それが憲法に戻ると
いうことです。
その意味を込めて、この裁判は私たちが正気に戻るための裁判、人類の普遍的
な原理である憲法に立ち戻るための裁判と考えたのです。
26条というのは、憲法の以下の条文のことです。
1. すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教
育を受ける権利を有する。
2. すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を
受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
憲法の立場からすれば、福島の生徒は無償で、疎開し、安全な環境のもとで教
育を受ける権利が保障されるべきなのです。